2016年7月27日よりお陰様で当社は創業40年目に入ります。当社がここまで事業を続けてこられたのは、ひとえに地方自治体や日本赤十字社を始めとするお客さま方や富士通を始めとする企業の皆様方のご指導ご鞭撻の賜物に他ありません。改めて厚く御礼申し上げます。
そしてこれからもさらなる発展継続のために尽力いたします。
さて、この創業40年を契機に当社はさまざまな事に取り組んでおります。ホームページの刷新もその一例で、あわせて情報発信の一環としてコラムを不定期に掲載させていただくこととしました。単に事業内容だけでなく、さまざまなジャンルに渡って徒然なるまま思った事、感じた事などを書き綴っていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
記念すべきコラム第一号は当社の創業社長である出口親(いでぐち ちかし)が昭和60年4月13日に記述したコラムをそのまま転載したいと思います。やや長文になりますが、最後までお読みいただければ幸いです。
人は難関に遭遇するとつい本性を出し勝ちになります。他人から本性を見透かされるのは、このような時です。大きく分けると難関に積極的に立ちむかう人と、難関を避けてというか逃避してしまう人とに分かれます。だから難関に遭遇した時には、意識して男の美学に徹する必要があると言えます。私は人からネアカ人間だと思われています。然し実際はそうでなく、些細なことに気が滅入ってしまうことがよくあります。そんな時には却ってはしゃいでいます。だから人はネアカ人間だと思うのでしょう。30年近く一緒に生活している家内ですらそうですから、何をかいわんやです。
私は私の弱さを良く承知しているつもりです。難関に遭遇すると、一番最初に逃げ出したい気持ちに襲われます。然し、それではならじと気持ちを奮い起たせているのが実際です。私の弱さというか、あるいは醜さというか、学生時代に自分で鼻持ちならないようなことをしてきています。その弱さを昭和30年4月19日、就職のための大阪行きの夜行列車の中で充分にふっきることを決意しました。
大阪行きの12時間の夜行列車は、私に充分な反省と決意の時間を与えてくれました。4月とは言え、夜はまだ冷えるとみえて、車内の汗ばむほどの暖房によって窓ガラスが濡れていたことを思い出します。
「窓は夜露に濡れて、都既に遠のく。北へ帰る旅人一人、涙流れて止まず。」
生まれて初めて故郷を離れて行く感傷と、これまでの怠惰な生活との別れの決意とで、何度も何度も「北帰行」の歌を心の中で歌いました。
「富も名誉も恋も、遠き憧れの日よ。淡き望みはかなき心、栄光我を去りぬ。」
「我は黙して行かん。何をまた語るべき。さらば祖国我が故郷よ。明日は異郷の旅路」
この「北帰行」の歌は、だから私にとっては、昭和30年4月19日の夜行列車の原点に引き戻してくれる大切な歌と言えます。
博多の私の会社がある朝日生命福岡ビルは祇園町の交差点角にあります。その交差点から千代町の方に向けて、嘗ては市内電車が走っていました。祇園町と千代町の中間に石堂川があり、それに現在段違いの橋がかかっています。高い方の橋は旧電車道で、低い方の橋は人や車が渡る橋です。
この低い橋の方は、私が九州大学在学中の昭和28年から29年にかけて鉄筋コンクリート橋に懸け替えられたものです。
当時の学生アルバイトと言えば、家庭教師のような楽で綺麗な仕事は少なく、土方、仲仕といった力仕事が殆どでした。
私は学友と3人で、この橋の工事現場の資材倉庫の夜警のアルバイトをしました。昭和28年と言えば、敗戦後の混乱がまだ完全には癒えておらず、さらに朝鮮戦争の真っ最中であり、人心はまだ荒んでいました。工事現場の周辺は、当時は言わばスラム街で、また資材倉庫に保管されている資材は、今と異なって資材不足ということもあり、盗んで闇市に持ち込むと直ちに換金出来るということもあって、最初の夜から不良青年やチンピラやくざに襲われました。学友2人は、怖さのあまり一晩も持ちこたえられず、辞めてしまいました。
私は父が病床に伏していることもあって、幼い弟妹との生活のこともあって、簡単に辞める訳にもいかず、やむ無く夜警の仕事を続けました。
毎夜毎夜「セメントを持ち出すから、知らん顔をしておけ。鉄筋を持ち出すから、見ぬ振りをしろ。」とか脅迫を受けました。
シノと言って、当時の高層建築の足場は、今と違って杉の丸太を藁縄で結わえて組み上げていたので、親指ほどの太さで長さが30センチ程の大きな木綿針のようなもので、脇腹に突き付けられて脅迫されたものです。
私は頑として拒否し続けました。怖さは怖いけれども生活がかかっているから、簡単に引き下がれなかったというのが実状でした。
当時は覚醒剤のヒロポン中毒が蔓延していましたので、その費用稼ぎの意図もあったのでしょう。脅迫は執ように続けられました。中には昼間の建設労働者の飲み残した湯呑みのお茶で、粉末のヒロポンを溶かして、静脈注射をする者もあり、おこりのようにガタガタ震える始末でした。私はその上にまたがって乗り、震えを押さえたことも何度もありました。おかしなことで、そんな中から彼等との間に友情に似た感情が芽生えてきました。
「おにいさん、もういたづらはしませんので、どうぞゆっくり寝(やす)んで下さい。」
それからは一度も脅迫に来る者はありませんでした。最初の夜から一か月もたっていたでしょうか。
この橋はこのようなことがあったということもあって、難関に遭遇した時の私の気持ちを引き立たせてくれる橋になっています。
あの時のように、毎夜毎夜脅迫されていた時でも、お前は耐えられたではないか、今の難関はそれと比べてどうなのか、私は会社の資金繰りが苦しい時、何度かこの橋の上に立ったものです。
私自身が中小企業の経営者ということもあって、多くの中小企業の経営者の方々とお付き合いがあります。尊敬できる方達が殆どですが、中には軽蔑に値する方もおられます。その数少ない軽蔑していた或る社長が、「出口さん、私の会社が今日になるまでには、何度血尿を出したことか。」と言われたことがあります。経営が苦しい時、あの唾棄すべき社長が、血尿を出しても頑張ったのだ、俺もそれまで頑張って見ようと考えたものでした。
「まだ出ない。まだ出ない。」何度トイレに行っても健康に恵まれていたのか、苦しさが足りないのか、血尿は一向に出てきませんでした。
お陰様でその内に経営は見違えるように好転し、富士通販売会社の中でも評判の会社になることができました。
「北帰行」の歌、あの橋、唾棄すべき社長の言葉、私には難関に遭遇した時の、難関に積極的に立ち向かう勇気を奮い立たせる妙薬があるのです。
(昭和60年4月13日 出口 親)